逃亡

 
 

 ある時、雷蔵はふと思いついて、鉢屋三郎を置き去りにしてみた。
 でも実際は望んでそうしたわけではなく、うっかりはぐれてしまったのだ。二人して森へ行き同じ道を歩いて帰ってくる途中、雷蔵が迷い三郎の姿が見えなくなった。

 鉢屋三郎とはこの学園へ来てそろそろ二年の付き合いになる。同じ姿をしていつでも共にいることから生じたものなのか、二人の間には繋がる不思議な「糸」のようなものがあった。
 雷蔵が考えている時、三郎が考えている時、双方の頭を見えない糸が繋いでいて、ちょうど糸筒で話をする時のように思いが伝わる。あるいは二人はぐれた時、体から繋がる糸が互いの居場所を教えてくれるというものだ。事実、何度も二人はそれを頼りに落ち合った。
「馬鹿を言うなよ。それは三郎がどこへいてもお前を探し当てるからだよ。だって三郎は天才じゃないか」
 級友の言葉に一度は頷いた雷蔵だったが、雷蔵の方が三郎を見つけ出したことだってある。その時三郎はそれを確信していた顔で、「待ちわびた」と言った。

 ところで、雷蔵は望めば糸を断ち切れるのではないかということに気がついた。
 ある時目を閉じて思い浮かべてみたところ、幻の糸は脳裏できらきらと光っていた。そこへそっと鋏を入れてみると、なんだか、とても簡単に切れそうな気がした。
 もうすぐ刃がかかるという時、傍らで歩く三郎がおかしな顔をしてこちらを見てきたので、雷蔵はさっと頭の中のものを引っ込めた。
 そんなことがあって今日、森の中目を開けて自分が一人であることを知った時、雷蔵はよし今だと思い立った。そして静かに目を閉じて、幻の糸に刃をかけた。
 糸は容易く切れた。目の裏の暗がりで、ぷつりと小さな音が聞こえたようだった。光を失いながらどこかへするすると巻き取られてゆき、やがて見えなくなった。

 

 雷蔵が急いで長屋へ帰ってくると、三郎の姿はやはりない。雷蔵は少し迷って、それからい組の長屋へと向かった。
 久々知兵助は声もかけずに入ってきた雷蔵へ怪訝な眼差しを向けたが、雷蔵が指を唇にあてて「しーっ」とやってみせると「ああ」と頷いた。髪をくるっと翻し、また文机に向かった。
 雷蔵はちょっと笑って、押入れへ行き中に身を潜めた。

 しばらく、ただ気配を殺して待つだけの時間が続いた。
 ――三郎はもう学園へ帰ってきているかな?
 初めの内はなんだかわくわくした。三郎を出し抜いて悪戯をするなんて初めてのことだ。
 三郎はきっと自分を探しているだろう。いつもと違って手繰るものがないので探しにくくて困っているに違いない。もしかすると探していないかもしれないけれど。「ああ疲れた」なんて言いながら、先に食堂へ行ってご飯を食べているのかもしれないけれど……
 ふと考え始めただけなのに止まらなくなり、そしてやっぱり「迷い」が出た。ぐるぐると、暗闇の中であれやこれやが頭を回った。
 ――三郎は来るかな来ないかな、探しているのかないないのかな、僕を見つけられるかなできないかな、隠れる場所はここで良いのかな別へ行こうかな、こんなことをしていいのかなやめようかな、糸なんて本当にあるのかな思いすごしなのかな……
 なんだか悲しくなってしまった雷蔵は目を瞑り、千切れた糸を探した。頭の中でパタパタと手を動かしていると、暗闇の中から弱々しい光が甦った。ぷっつりと切れたままの細い糸が近づいてきて指先に触れた。
 ――いいや、いけない! 
 しかし思い直して、雷蔵は幻の手を退けた。
 ――三郎は僕が隠れたことを悟って、悪戯に乗るまいと探さないままでいるのかも。でなければずっと前にここに気付いていて、痺れを切らした僕が出てくるのを部屋の外で待っているのかもしれないぞ。いけないいけない……
 ドドッ! と重い音が聞こえて雷蔵は身を竦ませた。外の廊下へ何かの塊が落ちてきたようだった。
 次に立てつけの悪い長屋の戸が軋み開く音、ひゅっと息をのむ気配がした。
 雷蔵はついに三郎が来たのだと身構えたが、同時にどこかほっとしていた。三郎は兵助にどう切り出すだろう、兵助は何と答えるだろう。
 ところがどうも様子がおかしい。外にいて侵入者と対面したはずの兵助が、微かに喉を鳴らした後には、しんとして声も立てない。
 ベタ、ベタッと濡れた足音が部屋へ入ってきて、ゆっくりとそこらを歩き回っている。
 そして雷蔵が隙間から覗き見ようと考えた瞬間、ダダダッと激しい足音を立ててこちらへ近づいてきた。雷蔵は息をのんで身を引いた。足音は目の前で止まった。
 押入れの前へ誰かがじっと立っている。
 空気が湿り、重くなったようだった。じっとりとした押入れの中雷蔵は息苦しくなり、肌には汗が噴き上がった。喉がきゅっと締まり、同時に悲鳴が洩れそうになって掌を口へ重ねようとした。途端に押入れの戸がメリメリと音を立てて押された。
「ひっ!」
 雷蔵は高い悲鳴を上げた。途端にぴたりと音が止んだ。
「らいぞーう」
「……」
「らいぞーう」
 聞いたことのない声だった。
 鼓動が跳ね上がり、雷蔵は腰をついたまま後ずさったが、同時にぞっとするくらい静かに戸が滑り、差し込んだ光が雷蔵の顔を切った。
 開いたところに、顔の見えない真っ暗な影が立っていた。
 夜を切りぬいてきたように黒く、しかし足先だけがべったりと濡れて赤かった。手首に切れた太い糸を巻いてずるずると引きずっており、その先には猫の頭ほどの実がぶら下がっていて幾つかが割れて中を見せていた。
「らいぞうどうしてだ」
「……」
 声を出せずにいると、影が「おかしいな」という風に小首を傾げた。その姿がどこかぼやけた。雷蔵の目の中に涙がたまって溢れかけていた。
「いこう。おなかがすいただろはやく、おばちゃんのりょうり、が食べたい」
 ぬっと手が伸びて、雷蔵の前へ差し出された。雷蔵は声にならない悲鳴を上げてそれを振り払った。
 その時、黒い手へ絡みつく糸の先より実の一つが落ちて床へ跳ねた。ころころと転がって、明るい部屋の真ん中へ躍り出てみると、それは良く熟れたアケビだった。
 雷蔵はあっと思いだした。森の中で、木の間に見える小高い場所へ赤く実ったアケビがいくつもいくつも生っていた。あれを取ろうか、どうやって取ろうか、登ろうか、迂回して丘へ出る道へ回ろうか……それを迷っている内に三郎は消えたのだった。
「そうか。もう口を、きいてくれないのか」
 はっと顔を上げて見ると、なんのことはない普段と変わらない三郎だった。太いアケビの蔓を手に巻きつけ、それを取る時どこかへ落ちたのか足袋が赤土の泥に塗れていた。十の小さな雷蔵と同じ姿をして、今目からひとすじの涙を零していた。
「三郎!」
 雷蔵は弾かれたようにして三郎の首へ飛びついた。
「ごめんねごめんね、悪かったよ!」
 触れ合った時、三郎の身体がびくっと震えた。それでも構わずぎゅうぎゅうと抱きついていると、やがて、ゆるゆると背へ手が回ってきた。
「三郎、ごめんね、怒っているよね」
「……少し、怒っている。こんなの全部私が食べてしまうから」
「うん。うん。いいよ。だって三郎が取ってきてくれたんじゃないか。全部食べてしまったらいいよ」
 そして雷蔵はぼろぼろ涙を零しながらしゃくりあげた。首へしがみ付いたまま襟を濡らしてくる雷蔵を三郎はただ受け止めていたが、しばらくしてぽつっと言った。
「一つ、やってもいいよ」
「……いいの?」
「一つは雷蔵で、残りは私のもの」
 そこで三郎の手にぎゅっと力がこもったので、雷蔵はとても安心した。それでまた泣いた。

「ただの悪戯のつもりだったんだ……どこか落ちたの?」
「向こうの崖で手を伸ばしている時下へ落ちた。でも怪我はしてない。突然、君がほんとうに私から隠れようとしたから驚いた」
「大丈夫? 痛い? 新野先生のところへ行こう」
「ううん。平気だ。汚れただけさ」
「もうしないよ」
「私ももう怒っていない」
 二人はにこっとして見つめ合った。
「うわあ、ここ拭かなきゃ!」
 床の至るところへ、べったりと赤い足跡が残っていた。部屋の中をぐるぐると歩きまわった様子が円を描いて続き、なんだか面白くなった雷蔵が追って廊下へ出てみると、足跡は廊下のひと部屋向こう辺りから突然始まっていた。
「どこから降りてきたの?」
「上からだよ」
「へえー」
 雷蔵はちらっと上の廂を見上げてそれで納得した。
「あっ、兵助が固まっちゃってる」
 部屋の主である久々知兵助は文机に座り振り返った状態で、ぱっちりと目を開けて静止していた。三郎がちょっと覗きこんで頷いた。
「私が化物の顔をして入ってきたからだな」
「どんな顔だよ」
「こーんな顔さ!」
 ぱっと振り返ると、三郎はざんばらになった黒髪の下から飛び出しそうな目玉と並びの悪い黄色い歯を覗かせて両手を前へ垂らしていた。
「わああ!」
 雷蔵は叫んだが、兵助はそれで目覚めたようにして口の中で「違う」と一言呟き、すうっと立って部屋を出ていった。
「驚いたか、雷蔵」
「当たり前だろ! あっ、兵助ここ僕らで拭いておくからね!」
 声をかけたが振り返りもしなかった。

 

 後であれこれ聞いてみたけれど、兵助はその時のことを二度と語らなかったし、雷蔵もそれ以上は聞かなかった。三郎と兵助もうまくやっているし、こだわるようなことではないのかもしれなかった。
 不思議な糸はしばらくは二人の間にあって、瞑った雷蔵の眼の裏に浮かびあがってきたけれど、やがて姿をなくして消えてしまった。それが失われたものなのか、ただ見えなくなったものなのかは雷蔵にもわからない。
 ただ、明るい太陽の元に立ち見仰ぐ時、手のひらに透ける赤い血脈に、雷蔵はあの恐ろしくも懐かしい光景を思い出す。――もしかするとここへ融けてしまったのかもしれない。