あなたからこなたへと
夕刻、三郎が使いを終えて帰ってくると、雷蔵はおらず、部屋の隅に一つこんもりとした白い山があった。よく見るとそれは布団で、中で人が丸まって小山になっているのだ。三郎は慌てて駆け寄り声をかけた。
「雷蔵、どうした? 痛いのか、どこかに怪我をしたのか?」
布団の中から「さぶろう」と小さな声がして、そこをめくり上げると、目をつむったまま身体を折り曲げた雷蔵がいた。胸の方へ埋めた顔がはっきりと歪んでおり、瞬く間に三郎はそれを己に写し取った。
「雷蔵!」
「ごめん……大袈裟に寝ていて。すぐに起きあがるつもりでいたんだけど、なんだか腹が痛んで堪らないんだ」
「待っていろ、すぐ新野先生を呼んでくるから」
「……善法寺先輩に、薬を貰った。きっと腹にくる風邪だろうって。もう飲んだから……」
「いけない、善法寺先輩なんかじゃあ」
「三郎……大丈夫だよ」
「いやもう一度診てもらおう」
半ば背を見せて立ち上がろうとした三郎の腕を雷蔵の手が掴んだ。その力の強さで三郎が振り返った。
「雷蔵」
「三郎、ここに居てくれよ……本当に仕方なくなったら、ちゃんと言うよ。だから、今はそれ以上のことはするな……」
今の雷蔵に使えるありったけの力で留めようとしたことがわかって、三郎はしぶしぶ頷いた。雷蔵は安心した様子でまた布団へ顔をつけた。そして熱い息を何度か敷布の上へ投げ出しているうちに、朦朧として意識を失くした。
***
水音が耳に心地よく、額の上がひんやりと冷たかった。
雷蔵が瞼を動かすと額の布がずるりと滑った。そのまま体を起こそうとした所で、胸の上に水気を帯びた手がすっと現れた。
「起きたか」
「……さ、ぶろう」
「うん、少し眠っていた。まだ眠っていた方がいい」
肌へ清潔な布の感触がしており、粘りついていた体はすっきりとして軽くなったようだった。水桶と布を視界の端へ入れて、雷蔵は体を拭かれ、寝まきを取り換えられたことを察した。
「三郎……ごめん」
「何が? ああ、勝手に着換えさせたよ。汗が酷かったからな」
「うん……」
それっきり三郎は口をきかなかった。枕元へじっと座って、時々こちらの額へ手を当て、水を含ませた冷たい布を取り換えた。
辺りはしんと静まり返り、もう夜半を過ぎているようだった。部屋の中は微かな灯だけが点って暗く、見降ろしてくる三郎の、いや自分自身の見慣れた顔がどこか見知らぬ他人のもののように思えた。
それからまた、雷蔵はしばらくの間夢うつつを繰り返した。そして次に目覚めた時、ぶるっと身ぶるいをした。腹のあたり、臓腑は変わらず焼けるようなのに、いつの間にか手足だけが氷のように冷えてしまっている。痛いほどに。
お陰で寝付けず、しかし冷え切った手足をすり合わせてもどうにも温もらない。体をもぞもぞとさせていると、声が降ってきた。
「寒いのか」
「……うん」
するりと三郎が布団の中へ入り込み、先ほどまで見下ろしてきていた顔が真横にあった。身が寄り添い、足が絡み、その熱が雷蔵に分け与えられた。
雷蔵ははあっと安堵の息を吐いた。氷のような足にじわじわと熱がしみ込んでくる。同時に三郎の手が雷蔵の背や肩を撫でて温め始めた。その手は、こちらの手のひらや足の先へも及び、黙々と冷えた場所へ熱を配り続けた。
「ありがとう、三郎」
三郎は頷いた。それからまた温かい手で体を撫でた。
大分温まった頃、撫でる手の揺らぎが止まったので雷蔵が目を開けてみると、三郎の方は目を瞑って、片方の手をこちらの腹、もう片方を自身の腹に当てて何やらぼそぼそと唱えている。
雷蔵は委員会の時のようにして耳をそばだてた。
きっと中在家先輩あたりなら、「痛いのは遠くのお山へ飛んで行け」なんて言うのかもしれない。下級生はひとくくりに考えているようだから。でも三郎の場合なら、それが幾らか格好をつけたものになっていてしかるべきだ。
――この腹痛を、裏々山の鬼にでも食わせようとしているのかもしれない。
雷蔵は笑んで、静かに聞き入った。そうして息を落ちつけていると、微かな三郎の声が耳の中へ入ってきた。
「あなたからこなたへあしきものうつれ。こなたからあなたへよきものわたれ。あなたからこなたへと……」
雷蔵は、ぱっと目を開けてそのまま瞬きをしなかった。それからぐっと奥の歯を噛みしめ、擦り寄せるように三郎の肩へ額を当て、その俯けた顔の下で幾筋かの涙を零した。
滴りが留まらず、じわじわと三郎の肩を濡らしたため、三郎もはたと気付いて顔をあげた。向かい合い、二つの高い鼻が触れあった。
「雷蔵、雷蔵」
「違う……」
「やはり医務室へ行こう。運ぶから少し辛抱を……」
「少しばかり体を病んで、同じだけ、気が弱った……それで……」
「痛むんだろう」
「違う……痛むけど、痛むところが違う。お前がそうやって迷いもなく僕へくれようとするのが……時々、堪らなく……」
先が上手く言葉にならなかった。
「い、いつも下らない悪さをして、こちらを悩ませてばかりいる癖に……お前いつも本当に大切な時に限って、何の頓着もなく……」
そう。三郎はそんな風に全てを投げ出そうとするのだ。間の当たりにした時、雷蔵の胸がどんな風にぎゅっと締め付けられるのかを知らないままで。
「……顔を借りている礼さ」
「もっと、多く……貰ってるよ」
「私の方が、多くを貰っている。あらゆるものを」
噛んで含むようにして与えられる温かい声が静かに臓腑にさえ染み込むようだった。雷蔵が閉じていた瞼をゆっくりと目を開けると、淵へ溜まっていた残りの粒がぱらぱらと零れた。
「三郎……お前が好きだ。ありがとう」
三郎が僅かに身じろぎ、触れるその手に躊躇いが生まれたようだった。しかし雷蔵が気に留めず温みに身を任せていると、そのうち三郎の拘りはほどけて、いつものように深く、ぐるりとこちらの身に腕を回してきた。
***
目が覚めてみると身体も手足もとろけるように温かかった。顔へ戸から漏れた光が射し、瞼の裏を赤く染めたために雷蔵は目を開いた。傍らに、光の中で髪をきらきらとさせながら、同じ顔をして異なる眠りの男が横たわっている。
顔と顔とがあまりにも近かったため、雷蔵が少し身を引くと、途端に嗜められたかのように頭が痛んだ。三郎の手のした悪戯かと思ったが、無実の腕は二本とも確かに雷蔵の身体へ巻き付いていた。髪が絡んでしまったのだろう。
「さ……」
呼びかけて雷蔵は声を飲み込んだ。穏やかな光は窓の格子からも差し込み部屋は明るく、向かい合って静かに息を漏らす友の顔がとても愛しかった。身も心もぽかぽかとして、取り巻くものの全てが、もう、あまりにも優しい。
雷蔵は温もりの中へまた深く身を埋めた。髪を引かぬように顔を近づけて、そっと囁いた。
「……三郎、こっちの腹痛はすっかり治ってしまったよ。お前の腹の中は痛んでいないかい。もし痛んでいるなら、今度は僕が貰ってしまうからな」
そして雷蔵は、向かう相手の頭を柔らかく胸の中に包んでしまった。
少し待って、ふさふさした髪の間から覗く耳がふっと色づき、それを見届けて雷蔵は微笑した。目を閉じながら、ゆっくりと瞼を下げるこの温かい眠りが腕の中の男へうつりわたるまで、きっとこのままでいようと決めた。
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