いけるくち
くじで組んだ数人での試験の途中、三郎は急に雷蔵の横へ現れて、「おい、他の皆はどうしたんだ?」と問われると、「置いてきた。馬鹿の考え休むに似たり」と答えてもちろん失格になった。
そして別の機会には、迷う雷蔵の横へ座り込んで同じ口で「私は待つよ。少し考えてからでも遅くはない」と言ったのだ。
「でも三郎、いいのかい」
「いいも何も。先へ行った奴らは余程焦っているんだろう。鍛錬を怠って自信も余裕もないものだから時を見誤ったな」
「そうかなあ。まあ、とにかく僕は……うーん……」
「決まったら起こしてくれよ」
悩む雷蔵の背にぺったりと自分の背中をつけて、時々伸びをしながら雷蔵を押したり、鼻歌を歌ったり。待つ間も目を瞑ってにこにことしていた。
「こんなあからさまな奴は生まれて初めて見た」
と言ったのは竹谷だが、これは一つの口から決まって出る台詞ではなかった。
ところで、三郎にとって雷蔵は親しい友だ。少し特別なところへいる大切な友人なのだ。
***
それは何の変哲もない日で、空は晴れても曇ってもいなくて、雲もちらほらしたりしなかったり。特筆すべきことなし! と日記に記されるに違いない、とにかく平凡な午後だった。
三郎は校舎のわきを歩きながら、夕飯についての考察を終え、次に次の変装について考え始めた。
(山田先生の顔はとても良いけれど、そろそろマンネリ気味で皆飽きてきているからなあ。小さい子供は飽きるのが早くっていけない。他を当たりたいところだが、洒落にならないものでは困るし誰も知らないものではウケが今一つだ。誰も驚かないことをやっても、ちっとも楽しくないからな……雷蔵の顔は、今はこれでいい。雷蔵の口を吸えればもっといい)
足がぴたっと止まった。
「うーん?」
三郎は首をかしげて、それからまた歩き出した。
(……いや、雷蔵の顔はこれでいいんだ。髪の方は季節によって少し手を加えれば。それで雷蔵の身体は、抱きしめて口を吸えればいい)
「うーん?」
三郎はきょろきょろと辺りを見渡した。誰かが後ろや上や世の狭間から現れて、こちらの思いに手を加えていないか? しかし誰もいない。
それから三郎は、仕方がないので雷蔵の笑顔について考えた。迷い悩む仕草について、迷いから覚めた時の目の色について、決意した際の凛とした面持ちについて考えてみた。すると確かに胸が高鳴った。血が体中に駆けめぐり手足が震え、息が酷く苦しいのをはっきりと悟った。
「三郎!」
と高らかに呼ばれて、向こうで手を振っている雷蔵から生じる、光に包まれた温かい空間を思った。
――ああ、あれを独り占めしたい。あの場所へ連なる何もかもを、雷蔵を、雷蔵を何もかも独り占めしたい!
突然、そう思った。強く。
自制をやめてしまうと、あちらの三郎は駆けに駆けて雷蔵に辿り着き、飛びついて地面へ押し倒した。「お先に」と言わんばかりにひらひらとこちらへ手を振り、そのまま下方へ消えていった。
――大変なことになってしまった!
三郎はみるみる紅潮した顔を抑えて、へたり込んだ。
――どうやら私はやましい想いを持っているぞ……雷蔵に! 私の雷蔵に!
香りのよい畳へごろりと寝転がり、座布団を枕にしながら、三郎は半ば諦めたようにして語った。できれば煎餅、あるいは団子あたりが欲しいものだが今は見当たらない。
「今まではひとつ布団で寝られればそれだけで良かったんだ。雷蔵の腹のあたりへしがみついて、心の臓がどくんどくんと鳴っているのを聴いていれば満足だった。でもこの先は、身も心も決してそうではいられないだろう。『あっと思えば恋だ』とは言うが、気づいてしまったからには後戻りなどできないよ。つまりはそういうわけなのさ……」
対する相談相手は三郎の告白を一言も漏らさず聞くと、腕を組み眉を寄せ、しばし考え込んでからこう漏らした。
「ヘムヘムへム……」
三郎はぱっと起き上がった。
「まさか! 私は自分がそんなやましい人間なのだとは考えてもみなかった。元から企みを持って雷蔵に近づいたなんてことはあり得ない。しかし今となってはなあ……ためしに、少しだけ脱がせてみてもいいかな? いくら雷蔵でも怒るかな」
学園長の庵を訪ねた時、この柔らかい忍犬ヘムヘムだけが座布団の上へきちんと座って、茶をすすっていた。三郎は同じく膝をつき合わせて熱い茶をすすった後は、ごろごろとしながら愚痴をこぼした。ここでは概ねこんな具合だ。
「ヘムへー! ヘムへー!」
淡い毛色をした手がぺちぺちと頭を叩くので、三郎は形だけよけた。
「おいおい酷いよ。だけどわかるだろう? 雷蔵はかわいくて、優しくって温かくって、たまらないよ。誰だってたまらないよ。うかうかしている内に雷蔵がどこかの奴に浚われでもしたら、ことじゃないか」
「ヘッ、ヘムヘムー?」
「やあ、あくまで可能性の話だ。でもそんなことが起きたら、殺すしかないか……及ばなくとも。しかし、私が死んだら雷蔵はどうなる? 泣くな……きっと雷蔵は私のために泣いてくれるだろうな……」
「ヘムヘム……」
「うん、確かに私は雷蔵にとって毒のある者で逆もまた然りなのだ。まあ、確かに他が来るよりも私が動く方が早いだろう。でもそれで早まりすぎてうっかり無理強いなどしてしまったら……」
「ヘムへム」
「そう、そうだ。身の破滅だ。雷蔵に嫌われたら私は死ぬ。あっ、どちらにしても死ぬな。もう手が浮かばないじゃないか! ……君だったらどうする?」
すると忍犬は、また腕組みをして考え込んだ。そしてしばらく髭をぴくぴくとさせていたが、ちらっと片目を開くとその口元をにやりとさせた。
「ヘム……ヘッヘムへム……!」
「えっ、そんなことを? それは思いつかなかった」
三郎は学園一、あるいはおばちゃんの次に強いと言われているこの超・忍者犬にしばし尊敬の眼差しを注いだ。
それから飽きて立ち上がり、庵の天井の、ひとつだけ板が外れて暗く空いたところを見上げた。
「学園長先生」
暗闇の向こうに、膝を抱えている老人の影がうっすらと見えていた。ここへ来た時から部屋中に甘い匂いが充満していたが、今は天井の上から漂ってきている。返事がないので三郎は再度呼びかけた。
「学園長先生」
「……なんじゃ」
「お知恵を授けて下さい」
「知らん」
「では、まんじゅうを下さい」
「やーじゃ」
しばらく黙って見上げていると、天井の穴から温泉まんじゅうがぽろっと一つ転げ出てきた。三郎はそれを受け取ると「もう一つ要るのです」と言って、またしばらく待った。でももう何も出て来なかったので、諦めて庵を去った。
これは旨いまんじゅうだ。学園長がしぶったのも頷ける。一口でそれがわかったために三郎は半分取っておくことにした。いそいそとまんじゅうを懐へしまった。
こうして持って帰ったまんじゅうを雷蔵は嬉しそうに受け取って食べるのだ。決してこちらの好意を拒んだことはなかった。とにかく、まんじゅうの場合はそうだった。
――でも、もし拒まれたら。いらない、どうしたって受け入れられないと言われたら?
そこで、三郎は恐怖による支配を思いついた。
野外実習の際にでも、怖い目を見せてやろうか。暗闇を往く中で振り返り、突如襲いかかって、言うことを聞かないなら顔の皮をはいで打ち捨てるとでも言えば、怯えてこちらに従うのではないか。つまり実力行使、既成事実の二手でどうか?
裏山を越えて少し行った先に、丈のある草がぼうぼうと生い茂る原がある。するならきっとあの辺りだ。
ふいに足をはらわれ、突き倒された雷蔵の髪がわっと地面へ広がる様はたまらなく良いものだろう。そして組み敷かれた雷蔵の丸い目がこちらを見上げてくる。
「おい、こんな時に悪戯するなって言ったろ」
三郎が笑って裏手で雷蔵の頬を張ると、頬を赤くした夢の雷蔵は瞬きをしなくなった。「言うことをきかないなら……」。囁いても、首のあたりへ吸いついても、見開いた目でどこか空の高い所を見ているのだ。
それで三郎が散々やりつくしてしまうと、草の間から裸でむっくりと起き上がり、読みあげるように言った。
「さよなら」
現実の三郎は「ぎゃっ!」と叫んだ。
足元が揺れ、身が震え、胃の中のものがこちらへ返ってきた。ふと目に入った井戸へ身を躍らせようとして、しかし思い留まった。――いけない。雷蔵が一人になってしまう。つるべを吊る縄を首へ絡めようとして、また思い留まった。駄目だ。雷蔵が一人になる。
三郎はさっき考えたことを、遠く、遠くへ投げ捨てた。つい手っ取り早い方法を模索してしまったが間違いだった。嫌われる前に死んでしまう。
――そもそも、望むのは支配ではないのではないか? むしろ、こちらが支配されてしまえれば?
三郎はぱっと顔を輝かせた。
こんなに幸福なことはないと言ってもよかった! もし雷蔵が「何でも僕の言うことをきけ」というのなら、「うん」ではなく「はい!」と答える自信がある。三郎は、よしこれは名案と思いにっこりした。
しかしそれを伝えたところで、雷蔵は受け入れてくれるだろうか。冗談だと思って苦笑いするのではなくって、真実笑ってくれるのか? そう思うと、全く先が見いだせない。
「……駄目だ」
三郎はもう一度井戸へ身を投げようとしてやめた。雷蔵が一人になってしまう。
***
三郎は思い悩むのに飽きてきた。仏像だと思えば仏像、鯉だと思えば鯉をするのが三郎だった。してみんとてするのが信条だ。
それで裏々山で実習が行われ、中休みに飯を食べている際何気なく言ってみた。
「雷蔵」
「何」
「私はどうやら君をとても好きなようなんだが」
「ん、ああ、ありがとう」
雷蔵は元通り前を向いてしまった。三郎は雷蔵の頬を見つめた。食べ物を入れてもごもごとしている。
「雷蔵」
「うん?」
「特別に想っているようなんだ」
「もう、どうしたんだよ! 改まって。なんか気色悪いなあ」
雷蔵は笑って、こちらの弁当の中を覗き込んできた。
「何だよ? 欲しいおかずでもあるの。あ、お前の嫌いなの何か入ってたっけ?」
三郎はぐるっと辺りを見渡して、級友たちの顔色を窺った。皆平気で飯を食べている。
調度目が合った久々知の顔をそのまま見つめていると、久々知の方も全く視線を外さずにじっと見返して来た。
「何?」
「いや、聞こえただろう」
「ああ、雷蔵が好きだっていう話なら今更だなと思ったけど」
「今更というのは」
「説明する必要あるのか? お前が雷蔵を好きなのは誰だって知っているということ」
「……どうして」
「どうして?」
二人は「どうして」のやり取りを二度三度繰り返した。
「まあ、やっと認めたかって気もするけどな。『特別扱いなんかしていない』とか、時々白々しいことを真顔で言うからこっちこそどうしてやろうかと思っちゃいたが」
口の端から蝗の足を覗かせた竹谷が、握った箸でついついと三郎を指した。三郎はすごい顔をした。
「もう、そのくらいにしてくれよ。僕が居たたまれないだろー?」
「いや雷蔵が悪いんじゃないからな」
「ああ、雷蔵はどうしようもないことだからな。あれっ? 俺の水」
「うしろうしろ」
久々知の言う通り、竹谷の水筒は少し離れた後ろへ転がっていて、体をひねって取ろうとしたところを近くへ座る級友の手が助けた。
「すまんすまん」
「何の話?」
「三郎が雷蔵を好きだってよ」
「うん」
「それだけ」
「あほくさ」
三郎は膝の弁当を大きく持ち上げて地面に叩きつけそうになった。が、堪えた。まだ半分も食べていない。
「これはどういうことだ!? 私と君とは言わずもがなの仲だということか。何も言ってないし、していないのに。それに私は大分思い悩んで……」
「仰々しいなあ! だからさ、さっきお前が言ったことそのまんま僕だってそうだから、ただそれだけでいいんじゃないってことだよ。あんまり大げさに言うと変な噂が立つからやめてくれよなー? 今だって『ろ組の名物』とかなんとか言われてるのにさ」
三郎は何度か瞬きをした。
「……わからなくなってきた……らいぞーう……」
「なんだよ、三郎。お前今日ちょっとおかしいぞ。何かあったなら聞くけど、今がいい?」
「わからない」
「ほら、どうせ言わないんだろ。少しは僕を頼れよ」
雷蔵の手がわしゃわしゃと頭を撫でてくるので、三郎はそのまま頭を寄せていつものように雷蔵の身体へ寄りかかった。
「卵焼きあげようか」
「貰う」
それで口のところへ持って来られた卵焼きをぱくりと食べた。
「うまい。雷蔵のくれた卵焼き」
「おばちゃんの作った卵焼きだろ。おい、弁当落ちそう!」
「ああ、らいぞ……」
雷蔵はさっと自分の弁当を脇へ置くと、左手で三郎の頭を抱えこんで首のあたりへ押し付け、右の手で三郎の膝から落下しかけた弁当を掴んだ。
おかげで三郎は抱きかかえられたようになり、その口は半ば雷蔵のうなじへと当てられた。うっすらと汗をかいている肌へ触れるか触れないかの狭間で、三郎の唇は硬直した。吸おうと思えば、舐めようと思えば……
「危ない危ない」
「……」
「ちゃんと持って食べろよ」
「君の所為もあるんじゃないか? 私だけが悪いんじゃあないよな」
「何言ってるんだよ。お前の分の弁当まで責任取れないよ」
覗きこまれて、影の下から三郎はきょろっと目だけを上げた。少しの間ものも言わずに煩悶している様子だったが、途端に勢いよく起き上がった。そして怒涛の勢いで弁当をかっこみ始めた。
「な、何?」
もごもご言ってよく聞こえない中で、「こんなのはおかしい。私は鉢屋三郎だぞ」という類のことを吐き散らかした。
「あれだ。腹減りの猫だろ。何日も食ってないガリガリのに餌をやるとこういう風に唸るよな」
「あー」
あっという間に食べ終えて頷きあう前方の二人を睨みつけると、三郎はくるっと雷蔵へ向き直り、その口の端をべろりと舐めた。
「わっ! 何すんだ!」
「卵焼きがついてた」
「食べたのお前じゃないか! もー、きったないなあ」
三郎は雷蔵がごしごしと手で擦るのを見届けた。首をかしげてから再度弁当に取りかかった雷蔵の背中へ、その背をつけてぴったりと寄り添った。
「よし、考え方を変えることにした。雷蔵、甘いものが食べたくなったら言ってくれ。さっきのお返しをするからな」
「う、うん……なんだよ今日は、よくわからない奴だなあ」
「いいんだよ。雷蔵はいつも通りでいいんだ。私もいつも通り、雷蔵のことが大好きさ!」
ちらちらと、取り巻く級友たちの目が交じわり、誰の口からともなく声が漏れた。あるいは声ではないのかもしれないが――「ついに始まってしまった」。
三郎はやっぱり雷蔵の背中で伸びをして彼が食べ終わるのを待った。にこにこと鼻歌を歌い始めた。実に愉快そうに。
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