眠れない夜のために

 


 落葉が終わりに近づき、やや冬へとさしかかった肌寒い日の夜だった。雷蔵が眠っていると、布団の中で何かがもぞもぞとする。半分だけ目覚めてもうろうとしながら手探りをすると、もっさりとした毛に触れた。お腹の近くで毛のある生き物が丸くなっている。
「……ね、こ……? うーん……?」
 ただ毛の下にはつるつるとした皮膚があった。たぶん人間の。
「さぶろ……三郎?」
「うーん」
 三郎だ。同室である三郎が布団の中にいる。のろのろと起き上がって隣の布団を見てみると、上布団がかまくらのようにぽかっと穴を開けた状態で置いてあった。
「さぶろー、布団間違えてるよー……」
「……んん」
「三郎の布団、隣だよー」
「……」
「……さぶろー、寒いの?」
「うん」
 雷蔵は寒くはないけど眠かった。二人分の体温で布団の中はぽかぽかとして、まあいい気持ちだったので結局そのまま眠ってしまった。三郎は許されたと思ったのか、もぞもぞと動いて雷蔵の胸のあたりまで登って来て、また眠ったようだった。

 次の日が終わって布団を敷いている時に、雷蔵は思い出したので言ってみた。
「三郎、昨日僕の布団に来たんだよ」
「え、そう? 覚えてない」
「寒いって言ってさあ」
「ふーん」
 雷蔵が反論しなかったのは、朝になったら三郎はもう起きていて布団もきっちり畳まれていたからだ。夜のうちに自分の布団に戻ってしまって、それできっと覚えていないんだろうなと思った。
「いいからちゃんと寝てね!」
「うん」
 三郎が素直に頷いたので、雷蔵がほっとして眠ると、深夜の布団の中には三郎がいた。目を閉じたままでも中の温度と感触でわかる。何度外へ出しても入ってくる猫みたいにして、やっぱり入っている。
「んんー、もう、三郎……!」
「うん……」
「ねえ、布団、隣だよー」
「んん」
「もー、間違えてるったら! 出てってよー!」
 雷蔵が目を瞑ったままぐいぐいと胸のあたりの塊を押すと、丸くなっていた三郎がほどけて、その小さな手が雷蔵のお腹に回ってきた。ぎゅっと抱きつかれて、それで雷蔵ははっきり目が覚めた。
「あれっ? 三郎、三郎、どうしたの? ねえ」
「……」
「ええと、お腹痛いの? まだ寒いの?」
「……うん」
「どっち?」
「……どっちも」
「大変だ。新野先生のところ行こう! そしたらすぐにお腹痛いの治るよ。きっと風邪だよ」
「嫌だ」
「何で? 三郎、起きて!」
 雷蔵はお腹に三郎をくっつけたまま起き上がろうとした。引きずりながら上半身を起こしても、三郎は雷蔵の腹に手を回し、ふとももの上へへばりついたままだった。
「ねえ大丈夫だから離してよ。僕呼んでくるよ」
「雷蔵」
「何? どうしたらいいのか言って」
「……私ここがいいんだ」
 三郎が何を言っているのかよくわからなかった。
「僕と三郎のお布団、変えたいってこと? 僕向こうでもいいけど」
「ここで雷蔵と寝たい」
「え? ……えっ?」
「一緒に寝ててもいい?」
 そこでやっと三郎が顔を上げた。顔はいつも通り小さな雷蔵で、酷くバツが悪そうだった。半分伏せた目で床を見て、それから雷蔵をちらっと見た。
「……だめ?」
「うーん、だめじゃ、ないけど。ないけど……なんで?」
「寒いから」
 歯切れの悪いのが隠し切れていなかった。
 雷蔵は悩んだ。これから先ずっとこうだと言われるのかもしれない。だって顔のことだって、とても気軽にいいよって言っただけなのに結局ずっと使われてしまっているし。
 布団はそんなに大きくない。時々ごろごろっと転がりたい時もある。手足を伸ばして寝たい時なんか、どうしたらいいんだろう。
「……いいよ」
 雷蔵は頷いてしまった。三郎がなんだか本当に寒そうだった。
 三郎はぱっと笑顔になった。
「ありがとう、雷蔵!」
「う、うん」
「じゃあ早く寝よう。明日も沢山走るよ。きっと寝不足じゃ辛い……」
 布団へ押し付けられてるようにされて雷蔵は横になった。三郎はやっぱり雷蔵の胸の辺りへ顔を寄せて丸まり、すうすうと小さな寝息を立て始めた。雷蔵はその顔を覗いてみて思った。
 ――まあいいや! 
 

 

 *** 

 

 何日かして、同じような夜に雷蔵は厠へ行きたくなって目が覚めた。小さく「三郎も行く?」と聞いたけど返事はなかった。雷蔵はひとりで行って、部屋へ帰ってきた。
 ふと、空の布団が目に入った。
 雷蔵の布団に入ってくるようになってからも、三郎は毎日几帳面に自分の布団を敷いた。そして一度その中に入っておいてから、しばらくすると雷蔵の方へ移動してくるのだ。何の意味があるのか不思議だったけど、雷蔵は聞かなかった。
 雷蔵は戸を閉めて、立ったまま少し考えた。三郎は雷蔵の布団の中でよく眠っている。
 そーっと足音を立てずに自分の布団の端を通り過ぎて、三郎の布団へ入った。冷たい布団の中で雷蔵はちょっとだけ自由になった気がして嬉しかった。

 目が覚めると、横に三郎も布団もなく、始業の鐘が鳴っていた。
「うそ! 寝ぼうだ!」
 叫んですぐに教室へ走ったけど、もちろん間に合わない。
「不破雷蔵!」
 教室へ入った途端、馬鹿でかいどなり声が頭の上へ落ちてきて、雷蔵は身を竦めた。
「秋休みが終わってどれだけ経ったと思ってる!? 気合いを入れんか気合いを!」
 雷蔵は鬼瓦のような顔でカンカンになった先生にげんこつをひとつ貰ってから、とぼとぼと席へついた。三郎へ文句を言ってやるつもりだった。
「三郎どうして起こしてくれな……わっ、何これ」
 絡みつくような感触がして足元をみると、長々とした黒い髪がうねり、雷蔵の席どころか通路や四方の席まで広がっている。もちろん出所は隣の三郎で、どうやら今日の三郎は髪のお化けらしく、それでもしっかりと頭巾は被っていた。
 当てられて立ち上がると、体の三倍くらいある髪が一緒にずるずると引きずられて行った。悪戯をしようとした級友が手を突っ込むと、どういう仕組みなのか「抜けないよ!」「中で手が掴まれてるよ!」と逆に喚き立てる破目になり、皆が笑った。
 三郎が何食わぬ顔で席へ戻ってきたので、雷蔵は怒っていたのを忘れて話しかけた。
「今日のは何なの?」
「日記を書く女。今日も来なかった明日も来なかった」
 こちらを見もせずに言う。むうっとして髪の中を覗きこむと、三郎は何やらもったりとした女の顔をしている。知らない顔だ。
「……ねえ、どうして今日起こしてくれなかったの。何で先に行っちゃったのさ」
「急いでた」
「何で? 何か用事あった?」
「別に」
 明らかに三郎は怒っている。思い当たるのは、昨夜雷蔵が布団をこっそり抜け出したことくらいだった。
 だけど、そんなのでへそを曲げられるなんて納得がいかない。雷蔵だってたくさん三郎に怒りたいことがあった。夜のことだってそうだし、いつも雷蔵の顔で悪戯していることだってそうだし、それにそれに……!
「三郎って、わがままだ」
「……雷蔵は自分の管理ができない」
「今朝は! 前の晩にちょっと眠れなかっただけ」
「毎晩ぐうぐう寝てるじゃないか」
「寝れない時もあるよ!」
「いつ」
「三郎が僕の布団の中に入ってくる時!」
 教室がしーんとなり、皆の顔が一斉にこっちを向いた。
 三郎が耳をさっと赤くして、次の瞬間には髪のお化けをやめて雷蔵の顔で立ち上がっていた。雷蔵も負けじと立ち上がった。
「雷蔵バカ!」
「三郎バカ!」
 二人は両手を振りまわして叩き合った。それが終わるとお互いの肩を掴んで揉み合った。
「雷蔵のウソつき!」
「嘘なんてついてない!」
「じゃあいい加減だよ。いいよと言っておいていなくなった! 雷蔵は優しいから、どうせ誰の言うことだってはいはい利いてやるんだってわかってるよ。でも本当は私のことを煙たがっているんだったらはっきり言えばいいのに。なのに黙っていなくなった!」
「なにそれ……何それ! そんなことで怒ってさ! それで仕返しに朝僕を起さずに行ったって。三郎こそ、僕のこと面倒だって思ってるなら意地悪せずにはっきり言ったらどうなんだよ! 馬鹿みたい!」
「雷蔵が先にしたから同じことをしたまでさ。朝なんて、これから誰か別のやつに起して貰えばいいよ! 頼んでおけばどうせ誰かが来るよ、らいぞーってさ。それで雷蔵は私のことなんかきっと本当にどうでもよくなるよ! 私すぐにいなくなってやるから!」
「三郎! 何でいなくなるとか言うの! じゃあさ、じゃあ、三郎こそ別の人の顔借りろよ! 僕の真似しなくていいよ! 僕のこと待ってなくていいよ……迷ってたらいつも皆先に行っちゃうのにさ、三郎だけ戻ってきてくれるの知ってるよ……どうでもいいとか思ってるわけないのに。何でいなくなるって……三郎が寒くって震えてるの嫌だなと思ったから、僕、いいよって……言ったのに……!」
 ばちばちと手で打ち合うよりもずっと痛い様子だった。雷蔵の顔がふにゃふにゃ歪んで、それからわあっと火がついたように泣きだした。
「三郎……きらい! もういやだあ!」
 それはそれは見事な大粒の涙だった。雷蔵の顔からぼろぼろ水が落ちているのを、三郎はぼんやり見ていた。
「らいぞう」
 呼びかけたが雷蔵は叫びながら顔中をびしゃびしゃにしているままだった。三郎は何度か瞬きをしてから、雷蔵の顔を見て、下を見て、もう一度雷蔵の顔を見て、そして瞬きをしなくなったのと同時にその目からもすーっと涙を流した。
「雷蔵……泣くことないのに……私いなくなろうっと」
 それからあっという間に窓の傍へ立っていて、一度ちらっと雷蔵を振り返ってから外へ飛び降りてしまった。
 

 ***

 

「……三郎、怒ってるかなあ……」
 雷蔵は机へつっぷしたまま呟いた。
 あの後先生は慌てて追って行くし、皆窓の外を見ようと一気に押し寄せるし、がやがやお喋りが始まるしで大変だったのだ。
 雷蔵は沢山話しかけられたが、わんわん泣いていてほとんど答えなかった。鐘が鳴り、それでしばらく経ってから、やっと落ち着いた。
「布団がどうとかわかんねえけどさあ、何でお前が落ち込むの? お前が悪いの?」
「わかんない……」
「じゃあ俺もわかんない!」
 竹谷がごろんと床へ仰向けになり、ばさばさと手で羽ばたいた。雷蔵はそれを腕の隙間から見た。竹谷はいつもこんな風に笑い飛ばすだけで深く聞いてこない。でもそういうところが雷蔵の気を楽にさせる。
 起き上がらないままでもぞもぞ頭を動かしていると、こつこつ、と机を打つ音がした。そっと顔をあげてみると、久々知兵助が前の席へこちらを向いて座るところだった。
「すごい声してたから」
「い組にも聞こえた?」
「組中騒然」
 指された先を見ると、窓の外ではあちこちで砂煙が上がって、それを追う野次馬らしい生徒たちの声がこだましていた。たぶん三郎と先生が追いかけっこをしているのだ。
 三郎がどんな身のこなしで窓から降りるのかを雷蔵は知っている。前に見たことがあるけど、とても自分と同い年の子供ができるものじゃなかった。三郎は、よくわからないことだらけだ。
 久々知がじっと見つめてくるので、雷蔵は小さく頷いて少しづつ事のあらましを喋った。夜になると三郎が猫みたいにしていつの間にかお布団に入っていること、寒いと言うこと、本当に寒そうだということ、雷蔵はちょっとだけひとりになりたいと思う時があること……
 久々知は全部聞いてから、小首を傾げた。
「三郎はさみしいのかも」
「夜になると?」
「そう。でなかったら夜が怖い」
「あいつそんなタマかよ」
「三郎だって忍たま」
 三人はあれこれ案を出した。天井に嫌な形の染みがあるとか、自分の布団を洗うのが面倒だからとか。夜になるとしくしくと泣く子の話を思い出して、久々知が呟いた。
「ああ、母上が恋しいんじゃない?」
 そこで久々知の後ろで黙って本を読んでいた級友がくるっと振り向いた。
「私には母上なんかいない」
 「わっ!」と言って竹谷が飛び起きた。
「三郎……」
 久々知も流石に目をぱちぱちとさせ、竹谷はぶんぶんと音が鳴るくらいに大きく、今さっきまでそこにいたはずの同級生になり変った三郎と、窓の外とで顔をいったりきたりさせた。でも三郎は二人のことなど知らない様子で、思い詰めたように雷蔵のことをちらちらと見るだけだった。
「……雷蔵、ひとりになりたい時に邪魔して悪かったよ。まだ私のこと嫌い?」
「ううん」
「じゃあ見て。こういうこと」
 と言ってばりっと変装をはぐと、雷蔵の顔の下にまた雷蔵の顔があった。ただ下の雷蔵は目のあたりが青く痣になっていた。
「どうしたの?」
「雷蔵の足が当たった」
「さっき?」
「ううん、夜」
 雷蔵は少し考えこんで、はっと顔を上げた。
「僕、夜中に三郎を蹴ってるの?」
 三郎はわずかに頷いた。それで何もかもはっきりした。つまり答えは「雷蔵の寝ぞうがあまりにもすさまじいから」だ。
「雷蔵は、ぐるっと円を描くようにして回りながら動くんだ。自分の布団から私の布団の上を通って、また自分の布団に戻る。それで色々試してみた結果、雷蔵に張り付いて一緒に動いていくのが一番いいとわかった」
「寒いんじゃなかったんだ。だからお布団敷いてあったんだ……僕の所為だったのに」
 雷蔵の顔がみるみる赤くなった。また目がうるうるとし始めたので、三郎が慌てて雷蔵の頬を両手で撫でた。
「違う。寒いのは嘘じゃないよ。春や夏はまあいいけど、秋からこっち床の冷たいのは好きになれなくって。でも、どこでだって眠れる訓練にはなった。雷蔵の所為じゃないよ。雷蔵は何も悪くないよ」
「……三郎、どうして言わなかったんだよ。先生に言ったらさ……」
「部屋替えされたら嫌だ。それなら眠れない方がいい。私はずっと雷蔵といるんだ」
 雷蔵の顔がぱっと笑顔になって輝き、涙は引っ込んでしまったようだった。
「僕も……! 三郎とがいい。寝ぞう治すよ!」
「うん。ずっと一緒がいいなあ……別に治さなくってもいいよ」
 二人は同じ顔で見つめ合い、ぎゅっとお互いの手を取り合った。


 ところで、ずっと話を聞いていた久々知はなんだか納得がいかないのだ。
 ――別に寝ぞうくらいのこと。手足が飛んできたって三郎は避けて眠れるんじゃない?
 三郎の眠りについてなら、もっと印象深い話がある。
 い組もろ組も混ざって沢山走った後、ろ組の教室でまどろんでいるこの三人に出くわして、久々知も輪に入った。三郎は雷蔵の肩へ顔をのっけてうつらうつらしていたが、やがてごろっと転げると、雷蔵の膝に頭を置いてそのまま寝てしまった。
「あっ、三郎、こいつ寝た!」
 と竹谷が言って、雷蔵がうんと頷いた。三郎は雷蔵の腹のあたりに顔を押し付けて隠すようにしていたけれど、頭巾を取った首はどうしても無防備で、竹谷の目がじっとそこを見ているのがわかった。久々知だってやっぱり見ていた。
 そのうち二人は目が合って、頷きあってから手を伸ばした。
 三郎の顎がぴくっと動いたように思った時、急に雷蔵がばたんと前へ倒れた。雷蔵の体と膨らんだ髪が覆い被さって、すっかり三郎の姿を隠してしまった。
「僕も眠いっ!」
 それで竹谷と久々知は手を引っ込めた。眠いはずの雷蔵は興奮して顔が赤く、広げた腕でぎゅうっと強く三郎の身体を抱え込んでいた。これじゃあ下の三郎は息が苦しくって堪らないだろうと思った。事実三郎は潰れていた。
 つまらない顔で竹谷が庭の方へ去って、久々知も一度は立ち去ったが、しばらくして戻ってみると二人はそこで毬になっていた。獣の子のようにして丸く、眠っていた。
 この時こそ本当にどちらがどちらだかわからなかった。どちらもよく眠っていて、口元がにっこりしていて、温かそうだった。
 ――きっとあの時三郎はねぐらを見つけたのだ。
 久々知はそれを幸福なことだと思った。それからもう一度考えて――違う。とても悲しいことだと気づいた。
 そこで久々知と三郎と視線が合わさった。
「三郎って、枕が変わると眠れない方?」
「兵助は天然?」
「この先暑くなったら何て言うんだ?」
「豆腐が痛みやすいって言う」
 二人はぷいっと顔を反らした。
 
 そして冬になって、本格的に寒くなってしまうと、雷蔵と三郎でなくても一緒に寝て温まろうという子供たちが増えたので、誰の布団の中へ誰が丸まってなんていう話はバラバラになってしまった。

 

***

 

 春の柔らかな緑がすっかり濃くなり、蝉の声がいつまでも耳に残るような日が続いた。茹だるような夏の夜だった。
 雷蔵が眠っていると、蹴飛ばしてしまったはずの布団が覆いかぶさっている。うーんと唸りながら払いどけようとした時、もっさりとした毛に触れた。
「……うー……三郎!」
 汗だくの雷蔵が飛び起きると、腹のあたりにしがみついていた三郎がやっぱりバツの悪そうな顔を上げた。
「暑いから。体温よりも空気の方が熱いから、こうやってくっついてた方が涼しいんだ……ここで一緒に寝ててもいい?」