<九十九>
 

 抱えきれないほどの思い出がありました。春、桜の舞散る中で出会ったこと。夏、手を取り合って泳いだこと。はしゃぐ顔と水しぶきがキラキラと眩しかったこと。秋、傷つけ合って、泣いて、焼き芋を焼いて食べたこと。冬、雪だるまを開けたら中から新品のくないが出てきたこと。ほだされてうっかり体を許してしまったこと――
 どれも大切で、一つを選ぶことなんてできませんでした。
「うーん……」
 雷蔵は迷い続けました。
「鉢屋」
「なんですか」
「不破はいつもこうか」
 潮江先輩は室内で隣接するには不適切な汗臭さでした。また、やや顔が変形していました。三郎はちょっと得意気に言いました。
「可愛いでしょう。こうしてあれでもないこれでもないと悩み続けるんです。その間中うんうんいっている声だとか眉を寄せている顔だとかへの字になった口だとかが、とても無防備で、とにかく良い。でも襲っても無駄ですよ。雷蔵の影の中には常に私が控えていますから」
「ああそうか」
 潮江先輩は日頃から、あまり胸を打たない言葉は適当に相槌を打って流してしまうことに決めていました。古典の表現で言えば、右から左へ受け流していました。
「ところで、今ここでしているのは何だ?」
「怪談ですが」
「何か疑問はないか?」
「いいえ」
「じゃあ教えてやるが、不破はお前との思い出とやらを全部か」
「あっすみません、コンタクト(うそやで〜)がずれちゃって」
「全部怪談話だと」
「あれー暗すぎてよく聞こえません」
 

<九十九>
 

 雷蔵が迷いの途中で眠ることを祈りましたが、そうはいかない様子でしたので、四年生はさっきから田村三木ヱ門の「目が覚めたら顔が変わっていた。しかも二度も」という怪談で盛り上がっていました。
 そこへ二年生の池田三郎次と能勢久作が加わり、一年い組も加わって、顔が違うの声が違うの、名前が違うの、同級生が消えたの宣なきことを言い合っていると、やっと雷蔵の頭の上へ感嘆符(!)が立ちました。
「……よし、じゃあこれにしよう! これは僕が一年生の時から今現在まで続いている話です」
「早く話せ……」
 立花先輩はそろそろ発火しそうでしたが、持ちこたえたのはひとえにきり丸が横で売っているかき氷のお陰でした。売れ筋はハワイアンブルーです。
「ご存じの通り僕は昔から迷い癖があって、先生からもこのままでは忍者になれないのではないかと言われていました。僕はそれが辛くて……どうにか迷わずに、強くて才能のある忍びになれないものかと思い悩むうち、頭の中で僕にそっくりだけど強くて迷わない僕の分身を創りあげていたのです。彼は鉢屋三郎と言って、百年ほど前に生きていた有名な忍者の話がひな形になっていました」
「ほう、それで」
 一転、立花先輩が身を乗り出しました。
「僕は自分が鉢屋三郎だと思うと、迷うことなく行動できました。悪戯をするのも好きになって、考えも柔軟になり、成績も上がったし友達も増えました。ところがある時から僕が鉢屋三郎のふりをしていなくても、皆が鉢屋、鉢屋と呼ぶようになったのです。僕そのものではなく――僕の隣の空間を。何故だか誰も信じてくれませんが、僕は寝ぞうが悪くて入学してからずっと一人部屋だし、今だって僕の隣には誰もいない。僕は皆がふざけているのだとばかり……でも今夜も同じようだしそろそろ教えて欲しいんです。一体何が見えているんですか?」
 水を打ったように静かになりました。
 おや、注目を浴びているぞ? と気付いた三郎は少し考えてから顔をぺろっと撫でました。すると顔中が目でいっぱいになったので、きちんと全員にウィンクで応えることができました。
「おい! やめろ馬鹿!」
 下級生たちから出始めた魂を必死で押し返す食満先輩から怒声が飛びました。不評です。
「三郎、僕の顔は?」
 雷蔵の指が幾つかの目に目つぶしをくらわしたので、三郎は「痛いよ雷蔵、本物を刺したよ」と言ってすぐに元通りになりました。
「するよ。いつだってそうだ。しかし雷蔵ときたら、なんて可愛い嘘をつくんだろう」
「そうかなあ」
「さっきのが今日一番だ。私は君で君は私なんだな。私は真実君の影から生まれたんだな」
「よせよ、三郎。皆が気を悪くするじゃないか」
 二人が顔を寄せ合って、くすくすこそこそとやっているのはあんまりにも微笑ましい光景でした。ですから、六年生だけではなくてここへいるみんなの顔が残らず笑顔になりました。どこもかしこも、笑顔、笑顔、溢れる笑顔……
 珍しく意見が一致した様子の潮江先輩(笑顔)と食満先輩(笑顔)が口を揃えて言いました。
「お前たちはもうプロとしてやっていけそうな気がするな。だからこの学園から出ていけ」
「学園の裏に壊れた井戸があっただろ。お前たちにやるから中に住め。入ったらこっちで蓋をしておいてやるからな」
 突然、三郎と雷蔵の間から丸い目を見はった四年生がすぽっと顔を出しました。
「あそこにはもう先客がいるんですよ。この前這って出てくるところを私見ました」
「喜八郎!」
 叫んだ同級生が後ろから引っこ抜きました。
「じゃあ、ここの裏に使わなくなった大物用の倉庫があるからあそこへ入れ。邪魔が入らないように隙間という隙間に漆喰を塗ってやるから」
「そこから後ろ向きに走って出てきた人がタコンヌの横を通り過ぎたのも見たんです」
「喜八郎!」
 同級生が同じように引っこ抜きました。自分たちはあまり下級生に恵まれていないのかもしれない、という思いが六年生の頭をかすめました。またタコンヌはターコの又従姉妹のようです。
「皆何を言っているんだ、ここには不破一人しかいないだろう。想像の話をしただけで、かわいそうに。大勢でがなりたてるものではないぞ」
 立花先輩だけが、いまだに鉢屋幻説に乗り気でした。あるいはその話を引っ張ることで誤魔化したい何かがあるようでした。
 三郎と雷蔵はさっき脇の下に開けられた穴を密着して埋めました。それでまた顔を寄せ合いました。
「ほら言っただろ。怒ってるじゃないか」
「ああ、だって本当に可愛い話だったから」
「もうわかったよ。じゃあ蝋燭を消すよ」
「うん、雷蔵、一緒に」
 二人は小さな炎ひとつを消すために互いの唇を近づけました。
「……」
「三郎?」
「……雷蔵、明かりが消えてもいなくならないでおくれ」
「お前に言いたいよ……」
「雷蔵……」
「三郎……」
 二人はこくんと頷き、ほとんど互いへ向けて息を吹きかけました。
「「フー」」
 落ち着いて。あと少しの辛抱です。
 

<百>
 

 光が消える瞬間、お子様の目には配慮のいる何かがちらりと垣間見えたようにでしたが、残念なことに皆が拳を構えた時には暗闇の中で濛々と煙が漂っているだけでした。見越して手裏剣を投げた者もいましたが、その結果、善法寺先輩の悲鳴が聞こえました。
「では、大トリは私だな!」
 最後の一本は立花先輩の手にありました。蝋燭の明かりの中に、何か苦行に耐えきったような立花先輩の晴れやかな顔が浮かびました。
 立花先輩は、少し考えてからきっぱりとこう言い放ちました。

「我々は一生、年を取らない!」

 ――皆、ぽかん、としました。
 一度は静まりましたが、すぐにざわざわと騒がしくなったので、立花先輩はにっこりしながら辺りを見渡しました。七松先輩がからっと言いました。
「そんなのはわかっているから怖い話してくれよ」
「……そうか。では、えー、伊作は三回死んでいる」
「まあ、死んでてもおかしくはないけどな」
「ちょっと! 適当に怪談にしないでよ」
「そうそう。おかしなことを言っちゃいけない」
「……今誰が言った? 上から聞こえただろう、今!」
 潮江先輩が過剰な反応をしました。くないを手に立ち上がって血天井を刺そうとするので、ぎゅうぎゅうに混み合っている倉庫内ではここぞとばかりに激しい非難が上がりました。「虫は友達!」とか「甘酒代承認!」とか混じっていましたので、潮江先輩は四方へ向けて「バカタレ!」を連発しました。
「何かもっと現実味のある話はないのか」
「あー……ええと、だな。昨日夕飯の味噌汁をすすろうとしたら、汁の上になめくじと鼻水が浮いていた」
「そりゃ怖いな」
 食満先輩の声には感情が伴っていません。
「あの」
 ソフト・バリトンの良い声がしました。
「誰だ」
「五年い組、火薬委員の久々知兵助です」
「久々知? そういえばお前、随分静かだったようだが何をしていたんだ。豆腐を食べていたんだろうが」
「そうですが、違います」
 鉢屋と不破は「五年ろ組の名物コンビ」――と言えば聞こえはいいのですが、実質ただの傍迷惑なバカップルでした。ですから、彼らが自重を忘れた時には仕方なく同級生の有志が止めに入る手はずになっていました。この時代多く見られた連帯責任というやつです。
 立花先輩もそれを思い出しました。
「さっきまでの乱痴気騒ぎを見ての感想はどうだ」
「すみません。ですがこちらはこちらで困っていまして。つまり八左ヱ門の様子がおかしいんです。話かけても決して喋らないし、何だか表面の感触が違うようなので」
 食物を選別するような言い回しでした。
「ああ、蛇か。蛇が人違いをして首を絞めているというパターンだな」
「先輩、お言葉ですが蛇ではありません。じゅんこです」
「じゅんこが首を絞めているパターンだな。まだ生きているのか」
「じゅんこはここにいます。僕たちはいつだって一緒です」
 もちろん蛇についての反論は別の方向から飛んできていました。読んで字の如く藪蛇で、もう一組の人外枠バカップルに触れてしまったことを立花先輩は後悔しました。
「……生きてます……」
 久々知の横から、か細い声がしました。久々知が横の忍たまの肩を掴んでゆさゆさと揺すりました。
「何だ? だんだん口数が少なくなったかと思ったら、返事をしなくなるから何事かと思うだろ」
「……兵助……それは、俺じゃない……」
「あ?」
 確かに、声は一つ向こうからしていました。隣同士だったはずなのですが……
「いや、だから……雷蔵の何個目かの話が終わった辺りから……いつの間にか俺の隣に……知らない奴が座ってるんですけど……」
「……なんで言わないんだよ」
「言ったらお前ら逃げるだろ!」
 竹谷がうっかり思い出してしまったのは、「私たち友達だよね? 何が起こってもそうだよね?」の問いの後に質問者が置き去りにされる類の怪談でした。大抵の場合地面から生えた白い手が足首をがっちりホールドしているあれです。
 立花先輩から譲り受けた最後の蝋燭を久々知がそっと近付けると、確かに竹谷と久々知の間には、(三段田数馬ではない)見知らぬ誰かが座っていました。竹谷は壁とその忍たまに挟まれて硬直していました。
 全員が一斉に腰を浮かして、いつでも逃げに移れる体制を取りました。竹谷の読みは決して外れていません。
 しかし怪談というのはどこからどこまでで一つにカウントされるのでしょうか。息をしていない誰かが消された蝋燭の数で判断しているのかもしれませんが、オチが二段構えだったり、内容によって仕切り直しをした場合、ダブルカウントされてしまうことはないのでしょうか。
「どうやら……不破が勝手に五つ、六つ喋った時点でとうに百話達成されていたようだな……」
 立花先輩はうっすらと冷や汗をかきながら、果敢にもその誰かに近寄りました。蝋燭に照らされているはずなのに、見知らぬ忍たまは顔形もあやふやで髪の長さすらわかりません。しかし、よくよく見てみると、彼が着ている制服の青紫色だけが妙にはっきりとしていました。謎の五年生――
 そこで、全員がはっとなりました。
 久々知がゆっくりと蝋燭の火を近づけてゆくと、決して詳細な容姿を明記できない五年生は、ふーっと蝋燭の火を吹き消してこう叫びました。
「――46巻に続く!」