※精神的には鉢雷、肉体的には雷鉢、描写は雷蔵×女です。
お嫌いな方はブラウザバックが賢明だと思います。
泣く女
鉢屋には三人女がいる、という噂を雷蔵が耳にしたのは五年になってからだった。いつも休みの度に二人してあちらこちらに繰り出しているし、始終腕を組んで歩いているようなものだったのに、一体いつからそんなことになったのか知れない。
それを聞いた時、雷蔵は事実であろうと確信した。
まあ、三郎は魅力的な男だった。もしも欲しい娘がいたら七日のうちには口を吸っているだろうと思われた。何しろ、相手の思うままに身も心も変えてしまえるのだから、一日で相手の好みを知り、残りの日はそのなりをして過ごせばいいという具合だろう。
「三禁? 遊んでいるだけなのに」と口の端を曲げる三郎の姿が見えるようだった。
嫉妬しているつもりは毛頭ないのだ。そんなことならそもそも三郎の隣にはおれない。けれど同じ男として――先を越されているのだなあと、しみじみ思う心は雷蔵にもあった。
***
「今日暇だろ? この間の川へ行こう」
雷蔵が声をかけると、三郎はちらっとこちらを見た。
三郎はもう私服へ着替えていた。休日で天気も良い。きっとこちらの誘いを待っており、笑顔で頷くだろうと雷蔵は信じていた。
「いや用がある」
「えっ、だってこの前は空いているって言ったじゃないか」
「この前はこの前。いつまでも同じじゃあない」
そしてすっと立ち上がり、小さな荷をひとつ持つと三郎は後ろ手をひらひらとさせて部屋を出て行った。
雷蔵は取り残されたような態で、つっ立っていた。しかし、はっとなってからは腹立たしくてたまらず、乱暴に着替えると当てつけのように自分も飛び出した。
町の通りは賑やかで、人でごった返していた。どこかで市でも開かれているのか様々な身なりの群れがあり、それらが交錯し、その度に流れを変えていた。雷蔵はすいすいと間を抜け、通りへ面した店先で古書や器などを見るともなく見た。
――三郎は、女に会いに行ったのかもしれない。
ふとそう思った。
――もしかすると連れ立って、この通りへ来ているのかもしれない。
なんとなく辺りを見回してみて、そこで一つの視線にゆき当たった。
むこうの櫛屋の影から、薄い衣を被った一人の娘がこちらをじっと見ている。知らない娘だった。衣に隠れて顔形は明らかでないが、立ちつくすその姿にも全く見覚えはない。
人違いだろうかと思った雷蔵が同じようにして見つめ返すと、衣の隙間の顔がかっと赤らんだ。雷蔵は胸がざわめいた。一度よそを見てから、また顔を向けてみるとやはりこちらを見ていた。
「わっ」
雷蔵は微かに叫んで足早に通りを去った。
町から少し過ぎた辺りに森があり、そこを小さな川が横切っている。雷蔵は川の淵へ腰をかけて一息ついた。
川の流れは静かで、木漏れ日を受けた水面がきらきらと眩しく、なんだか穏やかな心地だった。雷蔵はごろりと横になり、森の方からくるひんやりとした風に吹かれてまどろんでいた。
先週、三郎とここへ来たばかりなのだ。蛙やら魚やらを獲ってはしゃいだはずだった。
――なのに、同じじゃあないとか言われてしまうんだものなあ。
雷蔵は不貞腐れて、ふんと鼻を鳴らした。それから少し眠るようにしていた。
「……あの……あの、もし」
小さな、本当に微かな声がして身を起こすと、やや離れた木の間から衣の端がこちらへ覗いていた。先程の娘のものだった。
足元を見ると酷く汚れていた。娘の草鞋は泥に塗れ、途中で何度か転げたのか着物の膝のあたりには大きな染みができていた。
――ここまでついてきたのか?
雷蔵は驚き、同時に体がかっと熱くなるのを感じた。胸の脈打つのが早く、なんだかもどかしい気持ちで木の影の娘をじっと見た。
「何か、僕に用があるのか」
声をかけたが一向に出てこようとはしない。
少し迷ったが、雷蔵は自ら歩み寄った。娘は近づく雷蔵の姿を見て一度は身を隠そうという素振りを見せ、しかし思いなおしたのかやはりそのまま立っていた。
太い木を背にして娘と雷蔵は向かい合った。
「こんな場所へ、若い女が一人で来るなんていけないことだと言われてないかい」
衣は蜻蛉の羽のように薄く、淡い水色をしていた。雷蔵は透けた娘の黒髪を見下ろしながら「送ってゆくから、さあ行こう」と続けるつもりでいた。しかし娘が意を決したように、ぐっと顔を上げた。衣がはらっと取れて足元へ舞い落ち、現れた大きな目が水面のようにして光った。
「不破さま……不破さま、不破さま……!」
ただそれだけを悲痛に叫んだかと思うと、娘は雷蔵の胸元へぎゅっとしがみ付いた。
雷蔵は息が止まるかと思った。娘が泣いている。足が根付いたようにして動けず、やり場のない手は宙を彷徨った。そして、襟から胸元の肌へ触れてくるその手が、娘の身体があんまりにもぶるぶると震えているので、なんだかもう、堪らなくなってしまった。
「……いつか……通りで、わたくしの落とした櫛を拾って下さいました。だのに、わたくしは一言も口を利かずに逃げました……」
細い声を頼りに必死で記憶をさらったが、そのようなことは思い出せなかった。唯一頭をかすめたのは、頭の白い婆さまが落とした小銭を拾って返してやろうとしたところ、酷く乱暴にふんだくられたことだけだった。
「え、ああ、そんなこともあった、かなあ……」
「はい、確かなことでございます。慌てふためいたところを見られたうえに、さぞや躾のなっていない者だと思われたに違いないと……悔やまれて、来る日も、来る日も、ああして通りへ立ってお待ちしておりました……」
それも記憶になかった。何度か同じ通りを三郎と歩いたはずだが、この娘の姿は見つけられなかった。
娘は頬にそばかすを幾つか散らし、目がぱっちりとして愛らしい顔ではあったが、決して絶世の美女とは言えなかった。しかし、いつかどこかで見たようなという思いを雷蔵に起させた。本屋で見たような気もする。茶屋で、紅屋で見たような気もする。
「不破さま、お仲間の方と……」
「あ、ああ」
「よく連れ立って町へおいででしたね……近くへ寄って、けれど声をかけられずにいるうちに、そっとお名前が耳へ入ったのでございます……気味の悪いとお思いでしょうが、どうぞお許し下さい……お名前を呼ぶだけで、生きていられるという気がしたのです……」
雷蔵は呼ばれているのが自分の名前であるということを、どこかで忘れていたようだった。あんまり娘が泣くので、その涙が美しいので、何もかもわからなくなってしまった。
「……お厭いにならないで」
そして娘がか細く囁いて、また一粒の涙をこぼした時、雷蔵は顔を寄せて初めて女の口を吸った。
***
雷蔵と娘は何度か逢瀬を重ねて、そしてある時に森の奥の洞へと往き、身を重ねた。娘は決して明るい肌を見せようとはしなかった。洞の奥、暗い場所まで灯を持って進み、それを消してから着物を脱いだ。
雷蔵は、明かりをふっと吹く時の娘の唇が好きだった。
身の内にあっても、いつも凍えたようにして震えている体が好きだった。待ち合わせた時、迷い子のようにして心細げに立っている姿が、雷蔵が近づくと、ぱっと花開いたようにして笑うのが、何よりも好きだった。
雷蔵が気に病んだのは、娘が名を明かさないことだ。何度問うても、願っても、首を振るばかりで何ともならなかった。また仮の名を呼ぶことも拒むので、雷蔵は娘を「お前」と呼ぶ他なかった。
二人は七日と開けずに逢引しており、そしてふた月ほど経った時だった。
洞の中で娘が着物を整えて、手探りで灯をつけた。娘の顔が暗がりの中でぽっと輝いたのを見て、雷蔵はまた問いかけた。
「お前のことを、いつまでも「お前」とだけ呼ぶのはそろそろ切ないよ。どうにか名前を教えてくれないか」
「わたしくは、こうしてあなたが触れて下さるだけで……触れさせていただけるだけで、他に望むことなどないのです」
娘の手がそっと胸へ添えられたので、雷蔵は微笑んで肩口へしなだれてくる娘の髪を撫でた。
「でも、僕はお前をきちんと呼びたいんだよ。お前も僕を好いているのなら、望む心がわかるだろう? どうにか応えてくれよ」
「いいえ、不破さま……いいえ……それはわたくしを暴こうというのと、同じことなのでございます」
「暴く? 一体何を怖がるというんだ。僕はお前が何者だろうと、そんなのちっとも気にしないのに」
「……気になさらない?」
「うん。誰だってかまいやしないよ」
すると娘が身を起こした。娘は雷蔵の前へ座りなおして、何か証文に判をつくような具合で問いただした。
「……本当にそう仰って下さるのですか? わたくしが誰であろうと変わらず寄り添って下さると、そう仰るのですか、不破さま」
「ああ、もちろんそうだよ」
雷蔵はこちらも身を起して、娘に詰め寄った。ついに、という期待で胸が湧き、雷蔵は笑顔で娘の出方を待った。娘は、じっと雷蔵を見返して、それからふいに叫んだ。
「ああ……ああ、不破さま、不破さま! ……私の……!」
後半、娘の声の調子がおかしかった。雷蔵はぐらっと視界が揺れたように思われた。娘の目の、更に奥にもう一つの目があり、そこから抑えきれぬというような激しい光が漏れ出して雷蔵を貫いていた。雷蔵の顔から笑顔が引いた。
「お言葉を信じてもよろしいのですね……」
白い指がゆるゆると上り、娘の頬へ添えられた。そうして手のひらを当てたまま、宙へ肘をつくような姿で娘は留まった。
雷蔵は頭のどこかが凍りついたようだった。じっと、食い入るようにして娘のするのを見つめるしかできない。
柔らかい頬の上で、貼り付いたままの娘の指先が何度か揉むようにして上下した。ぐっと力を入れようとして娘は止まり、微かに首を振り、また動き、止まった。その目は地面の一点を掘るように強く見つめていた。
やがて、娘の指は震え始めた。
不破さま! と叫んで胸へすがった時のように、ぶるぶると震えて、震えて、留まらない様子だった。両手は頬より離れ、娘の口の間から悲痛なうめきが漏れた。
「……うう……うううう……ああ、あああ……ああああああ……!」
そして、静まり、命を亡くしたような二つの手がぱたりと膝に落ちた。追って娘の着物に雫が跳ね、染み込む間もなく次々に降り注いだ。
娘がゆっくりと顔を上げると、涙は流れて幾筋も娘の頬へ跡をつけていた。そこに漂白されたものがあった。激しく燃えて焼け落ちた後へ残る、灰の諦めに似たものがあった。
湧いては落ちる水の流れに、雷蔵は娘の決して終わらぬ悲しみを見た。
ふと、うわごとのように娘が呟いた。
「……心こそが……たったひとつの真でなのでございます。この想いだけが、何をどうしても偽れぬのです。そうでなければどうして、このような姿をさらせようか……おめおめと現れようか……」
擦れた声が終わるか終らないかのうちに、さっと立ちあがり娘の姿は洞の入口まで躍り出ていた。
雷蔵は追いすがり手を伸ばしたが、さらりとした娘の衣だけが指を掠めて、その体は捕まらなかった。
「不破さま……わたくしには名がないのでございます。さようなら」
娘は消えてしまった。
学園へ帰ると、庭に一筋の煙があがっており、近づいてみると三郎が棒の先で焚き火をつついていた。火はもうほとんど消えて、焼け跡へちらちらと赤いものが光るだけだった。
「三郎」
声をかけると、三郎はしゃがんだ姿のままで「ああ」と答えた。
「今日は町へ行かなかったのか」
「私は町へなど行っていないよ。いつそんなことを言った」
「あれ、違ったかなあ」
雷蔵は笑って、頭を掻いた。
「君こそ逢瀬は済んだのか」
三郎は無造作に棒を動かした。真っ黒な中に、薄汚れた布の端かと思われる淡い色がちらりと覗いた。
「振られてしまったよ」と雷蔵は呟いた。
「そうか。実は私もなんだ」
振り返った三郎の目が酷く赤かった。長い間、煙に打たれ続けていたようにして。
二人はもう燃え尽きて燻ぶる灰が、細く伸び、煙となって空へ昇ってゆく様を見守った。煙は昇るほどに儚くなり、いつしか風に浚われて消えた。
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